ビジネス用語やIT関係でよく使われていた(すでに過去形…)「ロジカルシンキング」という言葉は一種の業界用語のような響きで、最初に聞いた時からちょっと距離をおいていた。
正直に云えば胡散臭くて、言うにはちょっと恥ずかしい感じですね。
「何でか?」と問うと答えに窮していたのだが、改めて調べ、考えてみて「この辺りかな」、と云う理由が見えてきた。
以下、ちょっと長いですが、かのWikipedia(項目:ロジカルシンキング)の抜粋です。
―前略―
学術的に権威のある立場からロジカルシンキング、あるいは、論理思考という用語について明確な解説をしている例は少ないが、『新版 論理トレーニング(哲学教科書シリーズ)』(野矢茂樹, 産業出版, 2006年)には次のように記述されている。なお、論理学で扱う論理は、以下の引用における「狭い意味」の範囲である。
「論理的思考力」とか「ロジカル・シンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。
(中略) 論理力は思考力そのものではない。思考は、けっきょくのところ最後は「閃き」(飛躍)に行き着く。
(中略) 思考の本質はむしろ飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。
(中略) 論理力とは思考力のような新しいものを生み出す力ではなく、考えをきちんと伝える力であり、伝えられたものをきちんと受け取る力にほかならない。
狭い意味では演繹という関係だけを「論理」と呼ぶが、(中略)広い意味で「論理的」であるとは、さまざまな分野主張のまとまりが、たんに矛盾していないというだけでなく、一貫しており、有機的に組み立てられていることを意味している。
―後略―
読んでいて、どちらかと言うと世に言う「ロジカル・シンキング」は論理に比重が傾き、思考がなおざりになっているのが胡散臭さの原因だったように思える。
「論理」のように「矛盾なく、一貫して、有機的に組み立てられた」ものは美しく輝く。
けれど、私の惹かれるのはどちらかといば、違う次元への自由な「飛躍」の持つ「閃き」の美しさであり、言い換えると、摩訶不思議な「創造」というものへの(少し過剰かもしれないくらいの)価値観の裏返しが、鵺のような「ロジカル・シンキング」への猜疑に結びついていたのだと思う。
ということで、やっぱり「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」を念仏のように唱えて信仰するのと一緒で、受け売り的な「ロジカルシンキング」の垂れ流しは危ない。
結局、「跳んで」ないところが「トリ」としては一番気に喰わないところか。