【濡れ落葉の面白さ】で紹介できなかった今年最後の黒富士と雲の様子です。
【富士山 初冠雪】の通り、10月10日夜あたりに降った雪は根雪となって、来年の8月位まで白いものが残るでしょう。
最後の名残というわけで少し10月2日の写真をアップします。
雲や富士山は明るい光に満ちてました。
【濡れ落葉の面白さ】で紹介できなかった今年最後の黒富士と雲の様子です。
【富士山 初冠雪】の通り、10月10日夜あたりに降った雪は根雪となって、来年の8月位まで白いものが残るでしょう。
最後の名残というわけで少し10月2日の写真をアップします。
雲や富士山は明るい光に満ちてました。
家の周りには赤とんぼが多く、夏の暑い盛りから飛び回ってます。
でも、夏の間は真っ赤な赤とんぼはあまり見ません。
丁度、この季節になって木の実が熟するように、赤とんぼたちも真っ赤になります。
当然ですが、ならない種類はならないです。
「赤とんぼ」とは、特定の種類でなく、まあ赤っぽく、褐色っぽく、黄橙色っぽく・・・・・・そんな感じの色合いの小型のトンボ類ということで、かなり大雑把な分類ですが、これほど日本人にとって身近に感じられるトンボは他に無いでしょう。
「赤とんぼ」の歌がそのメロディーとともに深く心に根付いていて、心の原風景の一画を占めているのを感じます。
その赤とんぼですが・・・、
先日、庭で油断していた、赤とんぼを手で捕まえました。
アキアカネと判断して写真をとって放ちましたが、後で調べてみると大きな間違い。
ナツアカネのオスでした。
このように胸まで真っ赤になるのはナツアカネのようです。
胸の模様も少し違います。
こちらのサイトを参考にしました。
[今日のいきもの] アキアカネとナツアカネの判別方法
色々な種類が「赤とんぼ」と呼ばれていることは知っていましたが、秋になるとナツアカネの方がアキアカネよりも赤くなるとは。
腑に落ちるような、落ちないような、
妙な気持ちになってます。
Windows10を使い始めて既に2ヶ月半。
当初からの使い勝手の悪さは“慣れ”でも解消せず。
2台のWin7のうち、1台のノートPCのみすぐにアップグレードして使い分けてます。
Windows7を使っていてまだ無料アップグレードをしてない人は、もうちょっと待ってもいいと思います。
しかし、長期的にはWin10に変える方が長く使えるので痛いところです。
現状ではバグやらセキュリティーホールもありますが、特に他のアプリとの連携が今一歩足りないです。
ただ、酷評だったWin8系の人はアップグレードで使い易くなるのは間違いないでしょう。
デスクトップでの見易さ、使いやすさはWin7が圧勝。
フラットデザインにするにしても、あまりに見難いのがWindowsではよく使う「エクスプローラー」。
ファイル構造を掴む左サイドの「ナビゲーションウィンドウ」の判別のしづらさは、歴代でも酷い方。
いつも「どこだ」とよく見ないと分からないのは大きなストレス。
そして画像ファイルの多い私には、ものすごい不便になってしまった。
右の「プレビュー」で拡大しながら下の帯の部分で細かな情報を確認していたのが出来なくなってます。
もし出来る方法があれば教えて下さい。
あと酷いのが、「設定」パネルと「コントロールパネル」を別にしたこと。
こちらは慣れればどうにかなるが、折角の機会、統合して一つにしなかった理由が全く分からない。
なぜ?
他にもアップデートの設定が細かく出来ないなど、今まで出来たことが出来なくなっている不満は結構ある。
ただし、見えない部分での進化は大きいようで、安定化とセキュリティーの向上は進んでいる模様。
また、モバイル機器との連携はWin7より良いようです。
もう一台も、いずれWin10にアップグレードせざるを得ないのか、と思ってます。
Win10・・・やっぱりイマイチ。
一昨日からの昨日に掛けて富士山頂に雪が降りました。
今年は遅いと思ってましたが、平年より11日遅れということ。
昨日11日の午後、自動車に乗っていて気付きました。
8月終わりに初冠雪という年もあり、なかなか予想できません。
この時期の雪は根雪になるでしょう。
ということで、今朝は久しぶりに自転車で河口湖に向かい撮影。
天気がよく、カラッとしているのに水蒸気のせいか、薄っすらと靄がかかっている感じ。
もう少し山肌がはっきりしていると思っていたけれど、山頂以外、穏やかに平坦な富士山です。
5合目以下の黄色く色付いているところも薄靄で目立ちません。
湖畔のススキ(カヤ?違うかも)は白くなる前の銀色の輝きが美しい。
コスモスは盛りの時期を過ぎ、花も小さめになってきました。
さて、いよいよ冬。
その前に秋があるけれど、気分は既に冬。
ああ、長く寒い冬がやってくる・・・・・・
ビジネス用語やIT関係でよく使われていた(すでに過去形…)「ロジカルシンキング」という言葉は一種の業界用語のような響きで、最初に聞いた時からちょっと距離をおいていた。
正直に云えば胡散臭くて、言うにはちょっと恥ずかしい感じですね。
「何でか?」と問うと答えに窮していたのだが、改めて調べ、考えてみて「この辺りかな」、と云う理由が見えてきた。
以下、ちょっと長いですが、かのWikipedia(項目:ロジカルシンキング)の抜粋です。
―前略―
学術的に権威のある立場からロジカルシンキング、あるいは、論理思考という用語について明確な解説をしている例は少ないが、『新版 論理トレーニング(哲学教科書シリーズ)』(野矢茂樹, 産業出版, 2006年)には次のように記述されている。なお、論理学で扱う論理は、以下の引用における「狭い意味」の範囲である。
「論理的思考力」とか「ロジカル・シンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。
(中略) 論理力は思考力そのものではない。思考は、けっきょくのところ最後は「閃き」(飛躍)に行き着く。
(中略) 思考の本質はむしろ飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。
(中略) 論理力とは思考力のような新しいものを生み出す力ではなく、考えをきちんと伝える力であり、伝えられたものをきちんと受け取る力にほかならない。
狭い意味では演繹という関係だけを「論理」と呼ぶが、(中略)広い意味で「論理的」であるとは、さまざまな分野主張のまとまりが、たんに矛盾していないというだけでなく、一貫しており、有機的に組み立てられていることを意味している。
―後略―
読んでいて、どちらかと言うと世に言う「ロジカル・シンキング」は論理に比重が傾き、思考がなおざりになっているのが胡散臭さの原因だったように思える。
「論理」のように「矛盾なく、一貫して、有機的に組み立てられた」ものは美しく輝く。
けれど、私の惹かれるのはどちらかといば、違う次元への自由な「飛躍」の持つ「閃き」の美しさであり、言い換えると、摩訶不思議な「創造」というものへの(少し過剰かもしれないくらいの)価値観の裏返しが、鵺のような「ロジカル・シンキング」への猜疑に結びついていたのだと思う。
ということで、やっぱり「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」を念仏のように唱えて信仰するのと一緒で、受け売り的な「ロジカルシンキング」の垂れ流しは危ない。
結局、「跳んで」ないところが「トリ」としては一番気に喰わないところか。